物差しという言葉で例えられるのは、価値観や主義・主張といった、人それぞれが持っている見る事が叶わぬルールの事です。
誰しも自分の物差しを持っていますよね。
無自覚である人も多いかと思いますが、間違いなく持っています。
行動規範や判断基準と言っても差し支えありません。
人は誰も、表面的にどう振舞うかは別として、自分の中に確固たる物差しが存在しているんじゃないかと思うんです。
スキとかキライとかって凄く直感的な感覚ですが、これとて自身の物差しによって判断されたり感じられたりするイメージです。
情動や行動の基礎プログラム、とも言い換えられるかもしれません。
そうした物差しで、身の回りの出来事や見聞きする事象を計測し、判断し、行動する、というプログラムが日々実行されていきます。
この事自体には何の問題もないように思われます。
しかし日常にはこの物差しで測る事が出来ない何かが出現したり、更には判断する事を求められたりすることも、ままあるわけです。
自分が考えた事もない案件について意見を求められる、という時にもはや自分の物差しは役に立たず、その場で物差しをアップデイトするか、違う物差しを急いで見つけるか、或いはリアクションを放棄するか、まあ大体そのいずれかじゃないでしょうか。
この自分の物差しが通用しなかった時の行動って、人それぞれの性格が、よくよく表れるなと感じるんです。
特に、逸脱を恐れて行動出来ないタイプの人々は、悪目立ちしてしまいがちな気がします。
わたしはネットの大海においてどのように見えているのか自身では判断のしようもありませんが、自己評価としては、物差しに対する執着が極めて低いほうじゃないかと思うんですね。
もちろん、持っています、かなり屈強な物差しを。
しかしこの物差しはいつでも手放すことが出来るつもりでいますし、別の新たな物差しを手に入れる事は単純にエキサイティングで好きです。
それなりに齢を重ねた今でさえ、新たな考え方や知らない知識によって自分が変化する事が、楽しいと感じるんですね。
ですから、自分の物差しから逸脱する事に恐れを持っている人を見るにつけ、なんと楽しい事を棄てているのか、と勿体ないお化け百鬼夜行の心境です。
冷静に考えてみれば、確かに怖いのかもしれません。
判断基準を一瞬でも手放すわけですから、それまで積み上げた経験は使えませんし、信じていた真理は失われるのでしょうし。
しかしソレって怖い事なんでしょうか。
知識も経験もない状態って例えるなら、子供、とかですよね。
無邪気な状態、無垢な状態、分別がなくあらゆる行動が予測不可能な状態。
彼等って日々を怖がっているのでしょうか。
わたしはそうは思いません。
むしろ規範や慣例から解き放たれた状態は、実に無軌道な楽しみに満ちているように感じるんですよね。
小さな子供は、鉛筆を一本渡すだけで大人が思いつかないような遊びをその場で考えて直ぐに実行してしまいます。
いえ、内容そのものは実に平易でくだらない場合もあるんですよ。
書く、塗る、の他に、振り回す、くるくる回す、かじる、折る、などなどあらゆる動詞を試しているのかと思うような遊び方を始めたりします。
注目したいのは、物差しがなくとも恐れていないという事実。
物差しを手に入れる事は再現性を高めてリスクヘッジ出来る利点もある反面、結果的に自分の限界を定義してもいるんじゃないでしょうか。
自分の限界って定義したいですか。
わたしは定義したくありません。
それなりに齢を重ねた今でさえ、新たな考え方や知らない知識によって自分が変化する事が、楽しいと感じるわたしなのですから。
物差しは必要です、これには異論ありません。
ただこの物差しは、長さが限定的なものではなく、無限に遥か地平を超えてなお続く程のながーいモノであればいいんじゃないでしょうか。
手元の計測や反復される事象の再現性は確保出来るので。
しかし最長という概念の定義はしてくれない、という存在であるのが素敵なんじゃないかなって思うんです。
限界などない、まして恐れる対象などではない。
それなりに齢を重ねた今でさえ、そんなことを考えるわたしです。