駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

自分演出の会話って仕事に必要ある?って思った件


仕事の毎日。

仕事をする事はわたしの存在意義を確定させる重要な要素です。

こう書くと、いわゆるブラックな環境下での社畜生活を送っているように誤解されることが多いのですけども、そうではありません。

わたしは達成感とやりがいを感じながら、仕事に取り組んでいます。

そうしたわたしの勝手な想いは、時として他者の行動に対して反発を生む事もあります。

 

「それって仕事の質を上げる為に必要な事なの?」

「その話本当に、目的達成する為に考えた事なの?」

「仕事をナメてない?」

 

こういう疑問って、心の中に沸き起こってもいちいち口にしません。

数が多過ぎて他の事が何もできなくなってしまうからです。

これもまた誤解されやすい事なので念のためお伝えしますと、これらの疑問や質問って叱責したり嫌味を言いたいという気持ちから湧き出ているのではないんですね。

本当に純粋な疑問として沸き起こるんです。

ただ仮にそうした事を説明したうえで質問したところで、殆どのケースで返事は同じです。

 

「そこまで考えていなかった」

 

わたしは、8時間という労働時間の中でどうやればより良いパフォーマンスを得られるのかとか、どうやれば質を向上しつつ効率化出来るだろうかとか、労働そのものよりも成果の質に重きを置いていますので、「考えがたりない」という状況はなんとしても回避したい状態です。

 

与えられたタスクを言われた通りただただ反復するだけの仕事ももちそん存在しています。

それはそれで確実にタスクをこなし、精度を落とさないという事が価値なワケですけども、そうしようと思うとただ素直に繰り返すだけでは達成出来ない事が多いように思うんですね。

 

人間ですので。

 

人間はミスもするし疲れてもくるし面倒くさくもなってくるし飽きてもくるし、色々とノイズが待っているじゃないですか。

それらを勘案せずに機械のように振舞えるのだとしたら、それはそれでスキルですよね。

でも実際はそんな人を観た事ありません。

ここでも誤解されがちなのは、わたしの思考は我武者羅にただ頑張れとか辛さを我慢して滅私奉公すべしと言っているワケではなく、どうにかして楽をしながら精度を高められないか、という事を真剣に考えているという事です。

 

わたし、しんどいの好きじゃないんですよね。

 

でも仕事の質は落とせない、となると頭使いしかないんじゃないかなーって。

回りの人々を見て時々思うのですけども、よくそんなしんどい事を延々続ける気になるなって、わたしだったら絶対ソレやんないなって。

しんどそうなんでね。

仕事の質を上げる、という事の一部に、自分がその行為を続けられる、続けやすい、続けやすい環境を構築出来ている、っていう事も含まれると思うんですよね。

ものすごーく頑張って短期的にだけ発揮できる能力を使って結果を出そうとするのって、かなり限られたシチュエーションでなければあまり意味がないんじゃないでしょうか。

コンスタントに発揮できる能力の範囲で、しっかり結果を出すにはどうしたらいいのか、って考える事はとても有意義なんじゃないかなってよく思うんですよね。

わたしは努力もしますけども、継続出来そうにない努力って結局幻想だと思っています。

そういう類の努力を求められても、達成できませんから、わたし。

その代わり、結果が同じで別の手段なら考える余地はあるな、って思うタイプです。

そういう思考経路の持ち主であるわたしは、シンプルにいえば「仕事に不必要なナニかを仕事に持ち込む事」に抵抗感を感じます。

その不必要なナニかのTOP5に有史以来必ずランクインし続けているのが、「自分演出の会話」というやつだと思います。

じゃあ自分演出ってナニか。

よくいう、昔話、武勇伝、説教、とかじゃありませんよ、もちろんそれらもTOP10には入っていますけども。

端的に言うと以下のような事です。

  • 他人から誉められた話を、自慢ではない体裁で話す
  • マウンティングをしていない装いで、偽装マウンティングする

判りますかね、このニュアンス。

自分はイノセントな存在であり誉められるような事をしている認識は持っていないのにでもでも他人は自分の事を誉めるのである、という会話を聴かされたご経験はありませんか。

意図のあるなしに関わらず、こういう情報って仕事の質に全く影響しないので、わたしは全力で排斥したいんですよね。

 

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