駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

大人を否定した若者は死ぬしかないのかなって思った件

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大人と若者の話。

若者というのは、とかく大人を否定しがちです。

ピーターパン、パンクス、革命家、その他色々。大人って汚い、大人の考えている事は自分の利益ばかり、大人は他人を蹴落とす事しか考えていない、とかとかとか。

確かに一理あるでしょう。

ただし、子供も似たようなものだとは思いますけどもね。

つまりどういう事かと言えば「人間とはそんな生き物だ」という事ではないでしょうか。

当然、そんな人間ばかりでもありませんが、若者が否定したい汚い大人像は対して珍しくもありませんし、子供の内面でも珍しくない気がします。

大人になると単純に「若者よりは大きい程度の経済力」や「声を発する立場」を獲得しがちなので、その側面がより表面化しやすいだけなのかもしれないな、なんて思うのです。

大人となったわたしが思う事は、とにかく人間とはそんなものだ、という諦めにも似た理解で、良かろうが悪かろうが、自分が対処しなくてはならない問題は消えてなくならないし、何か声を上げたところで自分の役割以上の「何か」を変える事は出来ないだろうという認識です。

こういうと酷く後ろ向きに聞こえるかもしれません。

まあそうなのかも。

しかしわたしはそうでもないんじゃない?と思っています。

わたしの行動によって影響が及ぶ範囲においては、わたしはわたしの正義を基盤として動きますから、無抵抗や無行動、無思考を良しとはしていません。

ただ、その行為には意味があるのか、と考えてから行動しているだけです。

この「考えてから行動」という思考そのものには、若者から反発を買う可能性はあるかもしれません。

衝動的な行動に価値が見出される世代においては、「考える」とはすなわち「損得勘定をする」という事だ、と置き換えられがちだからでしょう。

この事は否定しません。

合っていると思います。

「損得勘定」という言葉の指し示す意味を、無意識に限定的にしている事が、誤解を生じさせているとは思っていますけどもね。

つまり、誰の得か、誰の損か、を勝手に決定していると思うんです。

わたしは自分以外の誰か、何か、が得するという事をテーマに損得勘定する事はままあります。

しかしこの事は若者には通じません。

残念ながら。

個人最適と全体最適の概念を持ちながら、その時々で優先すべきをフレキシブルに変化させながら生きているような大人の思考は、「計算」し過ぎていると見えるんだと思います。

そうして若者は大人に対して牙を剥き噛み付いていくのです。

しかし彼らは、いつかそう遠くない未来に自分達もまた大人になっていくのだという事を認識しているんでしょうか。

関わる人間、仲間、家族、身内、が増えれば増えるほど、反抗や反骨の精神を維持するのは難しくなるでしょう。

たった一人で立ち向かう時の方が、圧倒的に「迷い」はないはずです。

「迷い」がなかった状態から「迷い」が生じた時に、ある意味で自己否定が必要となる部分もあるんじゃないでしょうか。

かつての自分が掲げた理想や正義に、自ら首を締められる事になるのは決して珍しい事ではないでしょう。

わたしにもそんな経験は腐るほどあります。

ただ、そういう経験があるからこそ、ただ尖って、ただ切れ味が良過ぎるだけで、ただ否定的なだけでは、多くの物事を解決出来ないという事実を認識できるような気がします。

思考がマイルドになる、とでもいいましょうか。

大人になると、いつどういう時に「鋭く」あるべきかという点に、意識を向ける事が出来るようになる気がします。

もちろん誰もがそうではないわけですが、可能性は若かりし頃よりも幾分高くなっているような。

若かった頃、いつでも誰にでも「鋭く」接する事に価値を感じてしまっていたなあと回想します。

メリハリがなかったとも言い換えられますかね。

わたしはそんな感じでした。

大人を否定して生きていました。

今思えばその状態だった頃というのは、「失敗の経験」が圧倒的に足りていなかったと思います。

失敗を嫌になる程繰り返して、自己防衛の為に思考を変化させざるを得なかったわけです。

「負け」たのかもしれません。

確かに若かりし頃の理想とは、随分遠い位置で生きている気もします。

しかしもし若かりし頃の理想を頑なに維持しようとしたなら、わたしは死ぬしかなかったように思います。

「そんなものはこの世にあり得ない」と認められないまま生き続ける事は、叶わなかったように思うからです。

あなたは大人ですか。

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