駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

他人に興味を持てるかという課題はハードルが高いみたい

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会社でわたしが永年ともに仕事を続けてきた社員がいます。

彼の事は、仕事の何たるかを何も知らない10代の頃から知っています。

仕事のスピードが早くて、内容は雑でしたが人より本当に3倍程度のスピード感を出せるのが強みでした。

という事は、人と同じ時間をかける間に、三周分の修正やブラッシュアップが出来るという事です。

これは明らかに強みとして機能し、事実中々の実績を残してきました。

繰り返しになりますが、一周の実績は雑なんです。

一見、丁寧さを欠いた粗い仕事ぷりに見えます。

しかし同じテンションで、二周目、三周目の指示を的確に与えると、内容はどんどん良くなる。

残念ながら、その二周目、三周目のブラッシュアップの方向性そのものを、自分で見つける事は出来ません。

あくまで、他人であるわたしからのサジェストが必要で、試しに一人で締め切りギリギリまでの時間を使わせてみたら、全然期待した結果にはなりませんでした。

とはいえ。

そうした能力は使い方、使わせ方次第で輝くもので、プレイヤーである彼の事をちゃんと向き合っていれば、概ね望ましい成果を出す事が出来たんですね。

素質の欠如

さてそんな彼もそれなりに歳を取り、部下を持ち、ささやかな権限を手に入れ、リーダーと呼ばれるような立場になります。

プレイヤーからマネジメントの成果を求められるようになったわけです。

多くの企業、多くの組織において、こうした変化はむしろ当たり前で、給与が高くなった老兵は、自分一人だけで生み出せる成果では、給与額面とのバランス、コストパフォーマンスの維持が難しくなるわけです。

彼にはマネジメントの素質はないように思われました。

しかし知識と経験が圧倒的に足りていない事は自明でしたので、まずは腰を据えて3年ほど使ってみるつもりでマネジメントのいろはを伝えていくことにしたんですね。

そうして何度も失敗をしながら成長してくれることを期待したわけです。

しかし。

3年が経った今、彼はマネジメントの立場から退く事になる予定です。

3年の実績は、当初の想定よりあまりに低くマネジメントの継続を望まない声があまりに増えてしまった為です。

理由はいくつかあり、本人も認めるところなのですが、決定的な素質の欠損がこの状況の根底に在ります。

遠く及ばない状況

それは、「他人に興味を持てない」という性質です。

彼は自分の部下たる社員に、一切の興味を持てないのです。

人柄は穏やかで誰にでも嚙みつくような激しい気性があるわけでもないのですが、他人に興味を持てない以上、まるで人をモノのように扱ってしまったり、誰かが困るような事を平気で実行してしまったりするんですね。

当然本人にはそんな意図があってそうしているのではありません。

むしろ、誰にも迷惑をかけたくないと強く思っているようですし、自分が失敗する事をひどく警戒しているようでもあります。

しかしそうした情動のベースが、誰か第三者を含む集団としての利得を考慮したものではなく、彼個人、ただ一人の利得のみを考慮したものになってしまっていたのです。

しかし客観的にそう判断できる行動だったとして当人にその意識がない場合、それを伝えたとしても、真なる意味で理解できるかどうかは分かりません。

理解できるか否かは、完全に当人の柔軟性や「理解したい」という気持ちに依存してしまうのですから。

残念ながら彼にはそうした柔軟性や気持ちが、なかったんですね。

皆無ではなかったかもしれませんが、望まれる程度には遠く及ばない状況でした。

残念な結果

こうしたアンマッチは日々起こります。

殆どがアンマッチだと読んで差支えないレベルで起こります。

我々は会社という組織に属する以上、対価を得られると同時に成果を求められます。

それも計測可能な具体的な成果がその大半です。

わたしの会社はモノづくりに関連した業界に関わっていますが、モノづくりにおいても企業内においては数値管理を無視することが出来ません、もちろん全てではありませんが。

望まれる成果を提供出来るか否かが、組織の中で生き残れるか否かの直接的な材料となるわけですね。

この事そのものの良し悪しについては、わたしは随分依然に考える事をやめました。

一義的な答えがないうえに、こうした思考はひどく心を削り取っていくからです。

思考停止し、揺るぎない前提条件として捉える事が、わたしの防衛反応だったわけです。

しかしそうした理解や主義は、組織にとって特に問題となる事もありませんでした。

効率という意味でいうなら、より効果的だったとも言えます。

しかし、そこから零れ落ちた人々について、救いとなる考え方になるとは限りませんから、ある種ドラスティックな思想とも言えますよね。

長年付き合ってきた仕事仲間である彼は、3年間マネジメントという役割に挑戦しましたが、望まれる成果を出せずに、その役割を奪われる事になりました。

3年という期間は、大して長くありませんが、決して短くもなかったと思います。

失敗を繰り返して改善を試みる事も、一度や二度ならず実行出来たでしょう。

それでも成果にたどり着けない事はままあるものですし、取り立てて珍しい出来事ではありません。

残念だったとは思いますが、結果は結果です。

願わくば、彼自身が「自分はどれほど他人に対して興味を持てなかったのか」という点について振り返り、出来事として正面から受け入れてくれればいいなと思っています。

他人に興味を持てなくても、生きていく事はもちろん出来ますし、なんら引け目に感ずる必要もないでしょう。

ただ我々の組織では機能しなかったというだけの事。

今後残されている課題は、彼がこの先どうした立場を組織内で構築出来るのか、という点です。

わたしからサジェストはできますがそれはあくまでも他者からの提案にすぎませんから、彼自身が自分の未来をどうデザインするか、何を望むのか、にかかっています。

そしてその方法や手順さえも、同時に求められるでしょう。

組織人とはとかく面倒で苦しい場面が多いのです。

そこで生き残りたいか否かも、当人の思いに依存するのですから、彼は良く考えて答えを出してくれればと思います。

最後に

ああそうそう、わたしについてですが、他人への興味は彼に負けないほど持ち合わせいません。

しかし、他人に対する振舞い方は経験的に学習し熟知しているつもりです。

彼とわたしの差は、たかだかその程度だと思いますね。

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