諦めの話。
人は何かを諦めながら生きています。
わたしの話で言えば、毎日毎日、必ず何かを諦めている自覚があります。
数えた事はありませんが、多分30回くらいは諦めていそうです。
起きている時間が17時間前後だとすると、1時間に2回あるかないか。
実に30分に1回のペースで諦めている事になりますね、うん、そんなもんじゃないでしょうか。
こんなにも毎日諦め続けて生きていると、「諦める事」そのものが陳腐化してしまうものでして、基本的に物事は思った通りにはならない、という認識を持つようになりました。
まあ事実それで間違いないように思います。
物事は思った通りにはならない。
この認識に違和感はありません。
また言い換えると、毎日30回くらいは「思った通り」というストーリーというか展開というか、「流れ」を想像しているって事です。
「こうなるといいな」
「こうしたら、このあと楽しそうなんだけどな」
「ここで彼がこう言ったら、みんなのやる気が出そうだな」
これはわたしの淡い期待、希望的未来予想、タラレバの架空世界、が表出しているのだと思うのですね。
こうした想いは、それが「実現困難だから想像してしまう」のか、それとも「ニュートラルな脊髄反射」みたいな体の反応なのか、わたしには判りません。
ただ無意識に沸き起こる感じです。
誰でもそうなんじゃないかなと思うので、そこに意識がフォーカスして考える事なんてなかったのですが、最近意外とそうでもないのかもしれないな、と思うに至りました。
意外に想像していない人が多いのかも。
わたしとしては諦めながら、「今自分は一度諦めた」と自覚したいと思っています。
そしてそれは、自分にとって「次回の諦め」を回避する為の道具として機能している、いや機能させたい、イメージなんですね。
わたしは「諦める事」が基本的には嫌いです。
ですから、今諦めた案件は「同じシチュエーションや展開を引き起こさない」という回避方法で「2度目の発生を封じたい」と思っています。
まあ、なかなかそうは上手くいきませんけども。
「こうなればいいな、という想像や妄想の自覚」のあるなしに関わらず、人は多くの場合「諦める事」は自覚的に経験しているんじゃないかなと思います。
「日常とは諦めの連続である」という事実だけはみなさん解っていらっしゃる。
諦めなければならなかった事象に対して、何か能動的アクションを起こそうとした場合に限り、「自分はこんな事を諦めたのだ」と表現してもいいんじゃないか、とわたしは思うんですね。
何もアクションをしようとしなかったのなら、その「諦め」はあなたの心の中で静かに葬ってあげて欲しい。
言葉にするという事は、その存在を高らかに宣言する事じゃないでしょうか。
わたしは、「良くなる可能性」や「良くしようとする行動」が伴わない「諦め」を、自分以外の誰かに認識させるのって、暴力だと思うんです。
わたし極端でしょうか。
そうした「諦め」をお互いに見せあって、慰め合う事もあるのかもしれません。
それはどうか、同じ嗜好を持つ相手をどうにかして見つけて、コッソリやって欲しいなって思うんですね。
わたしわがままでしょうか。
ただこうして、ネットの大海に「わたしの諦め」についてその存在を書いてしまった以上、わたしもまたそうした「暴力を発する側」になってしまったのかもしれませんが。