駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

判断を求める時の礼節は大人なら守ってねっていう話

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話を聴く。

毎日毎日、誰かの話を聴きその内容に対してリアクションする。

わたしはこの事実そのものがもはや疲れの要因ですが、それでも社会生活を送るうえで、他人との関わりは避けて通れませんから、諦めの元対応しています。

私の手元にやってくる話の大半は、何か想定外の事が起こっていてどうすればいいのか示唆が欲しいとか、やり方が判らないから教えて欲しいとか、凡そ「困ってる人の救難信号」と呼べるものです。

立場や役割から考えればそれはまあ自然な状態で、経験者や決裁者のジャッジは、いつでも迷えるヒヨコたちの大好物です。

しかしこうしたヒヨコたちの声を聴く時に必ず脳裏を過るのは、「君達はもうこれ以上自分の脳では思考する余地がないと思える程度まで、考え抜いてやってきたのか」という疑問です。

わたしの感覚からすると、これは他人に助けを求める上での最低限の礼儀というか必須条件というか、真摯な行動だと思うのですけれども、そう感じている人は存外少ない気がします。

シンプルに表現するなら「甘え」でしょうか。

何か困った状況というのは、当事者にとってみればそれなりのストレス要因でしょうから、可能な限り早急に取り除きたい、その状況から脱出したい、と感じるのは当然でしょう。

そう思うあまり、一見最短コースである「他人に解決策をぶん投げる」という手段を採用しているわけですが、短期的に見ればその解決方法で目の前のストレスは消えそうなものの、当人の解決能力については何も積上がっていませんし何より「判断」していませんから、「変化」していないんですよね。

わたしはよく思うのですけれども、「困難」は「変化」のトリガーではないでしょうか。

「変化」は「成長」と言い換えてもいいかも知れません。

一切の困難、ハードル、を経験しない人がもしいたとしたら、人間的な成長が物凄く遅くなる気がするんです。

困難を前にして、如何な思考で対応したのか、どんな対策を検討して試してみたのか、そういうアレコレがその人の経験として蓄積してこそ、変化や成長が初めて起こると思いませんか。

成功か失敗は実は2番目の重要度で、自分で考えた結果で変化へ一歩近づいた事自体が最も重要なんじゃないかと思うんですね。

そうした経験の機会を放棄して、安易に誰かのジャッジを求めるのって、「自分は成長したくないです」と宣言しているように見えるんです。

事実、成長などしたくないのかも知れません、残念ながら。

そういう価値観の人がいてももはや驚きませんが、そうした人々に対してわたしは、人間関係の醸造をまったく欲しません。

言い換えると、成長したいと思っている人としか話をしたくありません。

そうは言ってもそれなりの社会人生活を経験しているわたしは、無視するよいうな事は勿論せず、粛々と最低限の対応を実行します。

「考えない相手」に対しては、わたしも「最低限しか判断しない」という感じに。

この考え方って横暴でしょうか。

自ら思考し転げ回りながらなんとか答えに近づこうとした人に対して、尊敬と賞賛の意味を込めてわたしの経験則や知識を提供したいと思うんです。

わたしの経験則や知識なんてたかが知れているのに、それでも思考しない人達にとっては目先のショートカットとして機能します。

それを「効率化」や「最適化」という言葉で正当化しようとするのは、まったく共感出来ません。

君よ、思考したまえ。

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