疑問の話。
疑問という言葉の印象って、みんなどんなイメージを持っているんでしょうか。
これまでそんなコトをあまり考える機会がなかったのですが、今日突然「ああ、そういうコトだったんだな」と独り小悟に至りました。
あなたは、疑問を持って生きていますか。
そんな疑問をもったコトはあるでしょうか、わたしは今日あったんです。
そして、色々のコトがパァッと視界が開けるように理解できた気がしたので、そのコトを書いておこうと思います。
疑問を感じる人類のわたし
わたしはこれに属している、と気づいたのです。
自分が見えている風景や聞こえている音を、他人もまだ同じように見たり聞いていると誰がいった?なんていう問いは、中二病の時代に幾度も擦りつけて逡巡した痛い記憶ですけども、今回の話は正にそういう類のヤツでした。
わたしは、「無意識に疑問を感じる人類」のようです。
「ようです」なんて言い方になるのは、他人の中身を本当に理解しているか不明だからなのと、自分にとって当たり前すぎるコトなのでわざわざ表出させるコトに違和感を感じるからです。
例えばわたしは、誰かと会話をしている間中、ほぼ全ての話題に疑問を持っています。
こう書くと、いつでも細かいコトに一々難癖をつけようとしている人間のように思われるかもしれませんが、もちろんそうではありません。
何か自分以外の人から情報や感情を伝え聴くにつけ、いつも頭の中で「なんで?」の検閲を通過させているイメージでしょうか。
それぞれの「なんで?」通過結果によって、「ふむふむなるほどね」ボックスや、「え?それってどういう意味なんだろう」ボックスや、或いは「うーん、それは違う気がするなあ」ボックスなどに振り分けられていきます。
言葉にするとそういうコトになるんですが、いちいちこの行為を脳内で言語化しているわけじゃないんですよ、当然ながら。
自転車をこぐ行為を一々考えながら行わないのと同じで、ほぼ無意識で反射的に実行されていく感じなんです。
会話の中では「え?それってどういう意味なんだろう」ボックスがある程度の量になるか、相手の喋りが一息つくと、初めて言葉にして相手に伝えます。
会話のテンションや相手の距離感、その他いろいろのコンテクストによって、どの程度の「え?それってどういう意味なんだろう」を相手に投げ返すのかは、変化します。
だから、全ての疑問を口にするわけじゃありません。
というより、殆どの場合で疑問は疑問のまま残ります。
わたしにとって会話しやすい相手、または会話したいと思える相手っていうのは、この疑問がたまりにくい人か、疑問を投げ返すコトが容易な相手、というコトになるんですよね。
疑問は必ずしも「悪」ではありません、これも当然ながら。
疑問の解消や、そこから発展する議論には、楽しみや意義が発生するコトも充分にあるのですから、疑問の段階では「ただ疑問に思っているだけ」です。
なんだったらわたしとしては、疑問が解消される場面を求めているともいえて、更にその話題が自分が好きな方面の内容だったりすると、疑問が発生するコト自体をうっすら望んでいたりもします。
楽しみを見出しているんです。
ただこれも言葉にすればそうだ、というだけで、殆ど無意識というか当たり前というか、意識に上るコトも殆どないような自然な仕草のような感じ、なのです。
そもそも「疑問」という単語が良くないのかもしれないですね。
物事の「受け取り方」、というコトなのかもしれません。
わたしは、あらゆる事象を「好奇の目」でみるタチ、なのです。
そして、自分の理解の及ばない事象や知らない事象に遭遇した時に、不安よりも期待を持つような「受け取り方」なのです。
うん、やはり説明が難しいです。
疑問を基本的に感じない人類
わたしにとっては、想像上の存在でしかないんです、今でも。
ただどうやら存在しているらしい、というコトを状況証拠的に理解したに過ぎません。
これまでそんな人など存在しない、と思っていました。
これは今思えば、ごく自然な誤解だったと思います。
自分にとって「当たり前」だと思って疑っていない行為があったとして、他人のその行為は目に見えない(例えば思考パターンみたいな)ものだった場合、そもそも確認のしようがありませんし、その存在にさえ気づくコトもかなり難しいように思います。
わたしも結局、これまでの人生で一度も疑わずに生きてきたのです。
先日、「疑問を感じる人類」である友人と会話をしていて、お互いに気が付いたのです。
二人でよく会話していた話題に、「どうしてあの人は、あの時に、こういう疑問を持たなかったんだろうね」というパターンがあります。
このパターン、特に意識していなかったんですが、実はかなり多かったんです。
そうして、そのコトに意識がフォーカスした瞬間に、スルスルと紐がほどけていくが如く、わたし達がこれまで感じるコトのあった違和感や不快感、不可解感は、全部「疑問を感じない人類」との接触、コミュニケイトによって発生していたのでは?という結論に帰結したのでした。
この話の、奇妙というか一見理解し難い部分は、その人の知性や経験値の高さに全く影響するコトなく、いずれのタイプでも存在しているコトだと思います。
疑問を感じない人にとって、何故疑問を感じないのか?という問いは無意味です。
何故なら「疑問点が無い」と思っている事象に対して、疑問を感ずるコトはできないからでしょう。
ある条件や事象を目の前にした時、素直にその出来事を受け入れて納得したのなら、わざわざ疑問点を探し出すといった行為は、戯れ以外に意味を持ちません。
そして人は、そうそう無意味と感じているコトに時間を使わない、と思います。
他人にとって無意味でも、自分にとって価値のある、意味のある、有意義な何かに対して時間を消費するのだと思います。
わざわざ意識していなくとも。
これが仮に滅私奉公のような行為だったとしても、それはやはり自分にとって価値のある行為だから実行されているのでしょうし。
疑問を感じない人類にとって、わたしのような疑問を感じる人類は時に、予見能力が優れているように見えるのだそうです。
或いは、一見見過ごしがちな些細なリスクを、的確に発見するコトができるように見えたりもするそうです。
しかし言わずもがな決してそうではありません。
疑問を感じない人にしてみれば「一見見過ごしがちなリスク」なのでしょうけど、基本的に全てを疑問検閲にかけて、あまつさえ通過結果を楽しみ(これも誤解されそうな単語ですけど)にしているような人間にとっては、見えないコトそのものが新たな疑問だったりします。
目の前にあるスマホが存在している可能性を疑うか?という話。
答えは否でしょ。
それぞれ幸せかもしれない
ある/なしという表現が災いして、疑問を持たないコトを悪くいっているように感じられたかもしれませんがしかし、それは違います。
わたしには、全くそういう意図はないと、宣言しておきたいんです。
誤解されるかもしれない可能性は承知の上で書いた、という部分もあります。
わたしの勝手な体感でいうと、世間の人々の内9割程度は、疑問を感じない人類のような気がしています。
そうするとわたしは1割の側というコトになりますが、そのコトにはとても残念な気分です。
ただでさえ左利きという少数派に属したために小さなストレスを日々被っているというのに、と悪態の一つもつきたくなります。
いずれにせよ、疑問を感じる人類は少数のような気がしています。
ということは、世間が右利きの人類に最適化されているのと同じで、社会は疑問を感じない人類にとって最適化されているのだと思います。
最大多数の最大幸福というやつですか。
だから疑問を持たなくても物事が進行できるような社会構造になっている、のだったらそれはそれでいいと思うのですが、わたしとしてはそういう社会構造になっているとは思えません。
つまり、多くの場面で「疑問を持つコトを要求されるような社会構造」になっている、と思います。
例えば仕事に対してもそうですし、政治についても、経済についても、思想についても。
細かな検査が必要な場面はことごとく疑問を持つコトを要求される場面じゃないかなと思うのです。
本来的な検査というのは疑問検閲を通過させて、齟齬がないコトや、状態が正常であるコトを確認していく作業だと思います。
検査行為そのものがテンプレート化されたりルーチン化されている場合は、この限りではないですよね、疑問を感じなくても同等の成果を得られるように工夫された仕組みなのですから。
事実、流れ作業的に進めたい検査行為に、一々疑問を持つのは非効率でしょうし。
ある一方で、疑問をもたずに済む社会や集団があるとすれば、それはそれでいいコトだな、と思うのですけども。
物事の幾つかは、「0」から「1」というタイミングが存在します。
このタイミングで、が大いに疑問を持つコトを求められるのだと思います。
というか、疑問が発端となるコトがほとんどかもしれません。
しかし「0」から「1」を生みだすコトが必要となる状況は、比較的少ないといえるのかもしれないな、とも思います。
「1」を「1以上」にする行為もそれはそれで存在していて価値のあるコトだと思いますし、その状況のほうが圧倒的に多い気がします。
そして、わたしはたまたま今回、疑問について意識がフォーカスしましたけど、それぞれの存在を知らずにそれぞれが過ごしているコトには、別段不幸はないように思います。
ただ、疑問を持つコトが望まれる場面には、疑問を持つタイプの人類をアサインできるといいな、とは思います。
社会は、疑問を感じない人類に最適化されていないのは間違いないと思いますから、どうにも違和感を感じる場面はあるんですよ。
最後にヒトコト
本件を言葉にするのに、こんなに大変な想いをするとは思いませんでした。
しかも、大変な想いをした割に、いいたいコトを正しく書けたという実感も得られていないのですから、困ったもの。
いずれまた、考えが更に整理できたら、このコトを書くかもしれません。
今書けるコトは取り急ぎ以上です。