駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

仕事と自分のホンネについて考えてみた

仕事と自分のホンネの話。仕事をしていると、自分のホンネをどこまで表出させていいものだろうか、と考えたコトはありませんか。わたしは、以前はよくそのコトを考えていました。以前は、という言い方になるのは、流石に最近は減った、という意味です。

結論めいたコトを言ってしまうと、仕事でホンネを表出させる場面というのは、多くても1割がいいところじゃないでしょうか。少なくともわたしは、その程度に最適化されています。

これは長年かけて蓄積された経験則から、概ねそんな感じだったというコトです。

1割というボリューム感は、わたしとしてはかなり多いなと思っています。1割もホンネを混ぜ込んでもいいんだな、というか。

仕事とは基本的に、他人の役に立つ行為に対して対価を得るという仕組みのコトですから、自分のホンネに対する優先順位は然程高くないと思っています。

もちろん全く無視してしまってもいいとは思っておらず、「イイ仕事」の材料として、一定量のホンネ成分が必要だとは思うんですね。ただやはり1割を超えて介入してくるホンネは、あまり歓迎されない気がします。

プライベート脳と仕事脳の違い、とでもいいましょうか。

わたしはアルバイター、フリーランス、会社員、契約社員、などいくつかの雇用形態を経験し、雇用する側の立場である時間もそれなりに永く過ごして来て改めて思うのです。「仕事がある」という状態のなんとありがたいコトよ、と。

昨今はいわゆる「売り手市場」といわれるようなイビツな就職戦線になっているようですね。雇用される側が雇用する側を優位な立場で選べるのだとか。まあそれは、雇用する側の姿勢や挙動も大きく影響しているのでしょうから、一概に雇用される側がけしからんという話でもないとは思います。

しかし、「雇用」や「雇用を維持するコト」についてなんだか軽んじて考えられているような気がして、うっすらもやもやします。

何も「企業に隷属せよ」などとは思っていません、もちろんながら。むしろ、主体的に能動的に労働するコトが望ましいと思っています。そうしたポジティヴな思考と行動に対して糧を得る為の賃金が支払われるのは、需給の成り立ちとして実に健康的でしょう。

しかしながらこれは、あくまで「他人の役に立つ」行為であるコトが前提だと思うんですね。自分の役に立つコトを繰り返していても、誰も対価を与えてはくれません。

他人の役に立つ上で、「自分のホンネ」って必要でしょうか。

「本当はやりたくないと思っているけど生きていく為にやるしかない」といった個人的な理由は、確かにそれぞれが抱えているのでしょう。というか、殆どの人はそんな気持ちを持っているのかもしれませんね。それはそれで正直な感情として理解出来ます。

しかしそのホンネは労働の上で特に必要ではないでしょうし、むしろ邪魔な存在じゃないでしょうか。

いやだなーと思いながら働くより、心を無にして機械的にこなす、でもいいと思います。とにかくそういう類のホンネは、労働において役に立たないからです。思考は言葉となり、言葉は行動となり、というヤツです。

仕事というものが、なんだか自分の人生の彩りを汚す「障害」のように論じられる場面もあったりして、わたしは仰天してしまいます。

仕事をもし「障害」だと感じているのなら、「雇用」や「雇用を維持するコト」はどう見えているのでしょう。その時、雇用する側がどれほどのカネと時間と想いを投下したのかという話題などは、取り扱われないのでしょうか。

仕事は無数にあります。自分が「この方法で他人の役に立ちたい」と思える何かを見つけるコトが出来たら、それがあなたの天職でしょうね。

天職を見つけて、1割程度のホンネを織り交ぜつつ、労働出来たらいいなと思います。わたしはそんな人生を送っています。

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