駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

タラレバってそんなに楽しいのかなって思った件

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わたしは「タラレバ」の話題にあまり興味を持てない人類です。

貴重な人生の時間をそんな話題で消費するなんて考えられない、とはいいませんが、まあソレに近い感覚は持ち合わせています。

「タラレバ」とはつまり、過去のある特定した時点で実際に行われた行為や選択がもし仮になされなかったとした場合に、どんな現在が想像し得るかという空想です。

空想はとても大切な行為だと思います。

少なくともわたしにとってはとっても優先度の高い要素です。

空想しない日はありませんし、空想さえ出来なかった時期はとても苦しんだものです。

空想してから寝てください、いやホントに。

ただし、過去から現在を空想で塗り替えるのは、イマイチその魅力が理解出来ません。

今とは違う環境や生活を空想するうえで、その空想の開始地点を「過去の選択」に設置する亊に意味を見いだせない、とでも言いましょうか。

コレは単なる好みの差なのかもしれませんね。

「過去の選択」の別バージョンを空想するのは、わたしにとって難しいというか、強烈な違和感を感じてしまうのです。

つまり、過去の自分が実際に選択した何か以外のものを、選び取るなんて想像しにくいわけです。

当然ですが、わたしはいつでも熟慮して何かを選択しているわけではありません。

感情的な動機によって選び取る亊もあれば、数日かけて熟考した亊もあります。

数日かけた亊などはごく稀なケースでしたけれども。

いずれにせよ、その決定がなされるに当たって使われた時間の長短に関わらず、十分に納得して選択していると思うんですね。

選んだ以上、その直後に結果が望ましくないと判った場合でも、自分が選んだ行為を恥じる亊はないと子供の頃から思っていましたから、その結果もまた受け入れられるという感じです。

言い換えればこれは、自己防衛の手段でもあったろうと思います。

わたしはとても心の弱い人間ですから、自己防衛の手段を数多く身につけてきたように思います。

自分が傷つくコトが恐ろしくて、自分を肯定して生きていく為に、思考上の「決着の付け方」を自分なりに作ったんでしょう。

だからわたしは「タラレバ」に違和感を感じるのだと思います。

過去の自分を肯定して生きているのに、ソレを否定するような行為を何故わざわざ?

「タラレバ」を楽しめるような、強い人間になりたいものです。

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