駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

「何かをしたい」という気持ちがどれだけ強かったかについて考えてみた

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この頃良く考えるのです。結局は「何かをしたい」という気持ちが如何に強いかが、人間としての魅力や生命力であり、あらゆる「力」の源泉なんじゃないか、という仮説のコトを。

自分自身を振り返ってみれば、わたしは「コレをしたい」と感じた時に、最も自分の能力が機能する気がしますし、「コレはしたくない」と感じた時のダメさもまた際立ちます。

効率を多くの場面で求めるわたしは、しかし自分の感情や「ノリ」というものの価値を、最大限評価しているつもりです。

感情や「ノリ」などといった定量化出来ない「何か」の存在を重要視するからこそ、定量化出来るものはことごとく視覚化して効率化したいと思っています。

そうして捻出された時間やその他のリソースを、思う存分感情に任せて「コレをしたい」と思える存在に捧げたいわけです。

わたしはそんな考え方を、いつでも連綿と続く地下水脈のように心の隅に隠し持っています。プライベートでも仕事でも、意識が明瞭な時はいつでもです。

残念ながらその「コレをしたい」という気持ちが、充分な満足感を獲得出来るのは、ごくごく稀なのですが。

わたしの日常をよく承知している人々は、そんな感情をもっているとは思われないかもしれません。リアルな日常でそのコトを表現する機会が、ほぼ皆無だからです。その理由は、「コレをしたい」と何か具体的に感じている人に、ほぼ出会わないからでしょう。わたしが自分の性質を吐露する場面は、とても慎重に選んでいます。

いえ、実際は「コレをしたい」とおっしゃる方は多くお見かけします。ただしわたしが、「ああ本当にそう思っているんだな」と感じるコトはやはりほぼ皆無なのです。自分でもなんと傲慢な物言いかと呆れてしまいますが、正直にそう感じるのですから仕方ありません。

多くの場合でわたしが感じてしまうのは、「コレをしたい」と思っていない人でも言えるような言葉は、「コレをしたい」と思っていない人からしか出てこないんだろうな、というコトです。

「コレをしたい」と本当に思うというのはどういうコトかといえば、「コレをする」為に具体的なアクションを起こしているという、実にシンプルなコトだと思うんですね。

「映画監督になって黒澤明さんのような映画を撮りたい」と思っているのなら、どんなアクションを起こすでしょうか。映画を無数に観て、シナリオを何本も書き、今ならネットで発表し、映像論についての勉強をする為に芸術大学を受験しているかもしれませんね。昨今なら個人制作の映画も、比較的手軽に作れそうです。

言っているだけで特に何もしていないのだとしたら、ソレは本当にそう思っていない、と判断していいような気がします。

「人気イラストレータになって書籍やゲームのキャラクタ・デザインをして生きていきたい」と思っているのなら、どんなアクションを起こすでしょうか。人気~、と言われるような存在になるのなら抜きん出た個性や技術が必要そうな気がしますから、とんでもなく数多くの絵を描き、発表し、修行しているかもしれませんね。

これらは、敢えてわかりやすく意地悪な例を列挙しましたが、でもあながち「遠からず」だと思うんですよ。少なくともわたしが「ああこの人はやりたいコトがあるんだな」と感じた数少ない人々は、わたしの想像以上の何かを既に実行している人達でした。

それは必ずしもお金をかけているワケではありませんでしたが、共通するのは時間と情熱を制限なしに注いでいるというコトでした。

今年も春を迎え、社会人の新人が世にあふれる中そんなコトを思い出しながら「君よやりたいコトを本気でやり給え」を老成した気分です。

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