生き死にの話。
人は前向きだろうが後ろ向きだろうが、日々を生きています。
たかだか80年程度、生まれ出て灰になるだけの、細やかな生命活動です。
生まれた意味を問う亊もありましょう。
わたしは自分なりにそのコトについて思考し、40歳の時に自分の答えに達しました。
答えはこれからの人生で変わるかもしれません。
しかし一旦は腑に落ちる答えに至る亊が出来たので、それなりに満足しています。
わたしの答えはこうです。
ただ生きているだけでは生まれた意味などない。生まれた意味は自分で作るしかない。誰も自分の生まれた意味など作ってくれはしない。自分が生まれた意味は、他者との関わりの中でのみ、その存在を認識されるのだと思えば、他者にとって有意義な存在になれた時こそ、生まれた意味が生じるのだと思う。自分の為だけに生きている状態において、生まれた意味は未だ発生していないと思う。生まれたからには、自分以外の誰かに「お前がいてくれて良かった」と思ってもらえるような存在になりたい。そう実感させてもらえた時に、自分の生まれた意味はこれだったのだなと、思えるんじゃないだろうか。
エンタメ業界に身を置いて既に25年以上が過ぎました。
自分が関わったコンテンツが誰かの楽しみや嬉しさに繋がる亊を願い続けた25年でもあります。
エンタメ業界はとかくブラックな印象で語られる亊が多いですね。
事実そうした側面もありますが、本当はそうした無茶な働き方をしてまでも、誰かを喜ばせたい気持ちが製作者達の心の中に、地下水脈となって連綿と流れ続けている亊もまた事実です。
そこには喜びがあり、自分が生まれた意味が潜んでいる可能性もあると思うのです。
昨日は、昼に京都アニメーションで起きた惨事のニュースを知り、ショックを受けて仕事が手につきませんでした。
亡くなった方々の冥福を祈るコトしか出来ない事実にもショックを受けました。
そうして、生まれた意味を改めて思い起こしました。
理由や理屈など、総てを飛び越えて死は突然やってくる亊があるのだと、改めて戦慄しました。
明日死んでも後悔しないなんて今はとても思えませんが、それでも死ぬ時は死ぬんでしょう。
毎日、必死に生きようと思いました。
R.I.P.