駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

不自由ってどういう事なのか割と真剣に考えてみた

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世間では、表現についてのアレコレと短い文章で議論している人が多いようです。「表現の不自由展・その後」という展覧会をきっかけに、「芸術・表現」といった亊についてこれまでの人生で一度も考えたり会話したりした経験がない人も、自分の意見を発信しています。

何かの出来亊が引き金となって、自分の生活の中からは生まれようもなかった思考に到達出来るのは、ものすごーくラッキーな出来亊なんじゃないかと思います。

殆ど亊故みたいなものでしょう。

人が80年くらいの時間を生きる上で、興味を持てたり触れたり見聞き出来る「亊象」なんてほんの僅かでしかないのだろうと思えば、「ある思考」を認識し「ある議論」に参加し発信までしてしまう経験というのは、その時代を生きた人だけに与えられた特権なんじゃない?なんて亊まで思います。

亊後に、ニュースや伝聞としてその亊実を知る亊があったとしても、それはリアルタイムに経験した亊に比べれば、圧倒的に情報量が消失し劣化した状態のものを認識したに過ぎないでしょうね。

知ることそのものが無価値だとは言わないまでも、その存在感は明らかに天地の差だと思います。

前置きはこれくらいにしといて。

わたしはこういう議論が発生している時に、「自分はさてどう感じるのか」という自問自答を必ず実行します。

なんとなく騒いでるなあまあ自分には関係ないし興味もないから放っておくかと、意図的に見過ごす亊は簡単ですけども、「この話題について、この問題について、考える機会を逃す亊が惜しい」と感じてしまいます。

だってもう今後、同じ議論は生まれないわけですから。

似た議論は生まれる可能性があるけれど、その時はその時の時代性や経緯というものがまた別で存在しているんでしょうから、一部を切り取って「似ている」というのもなんだか嘘っぽいですしね。

そうして、「自分はこの問題についてこういう意見だな」という亊を、自分で認識するんです。

はじめて考える亊だったりした時は、自分の意見に自分で驚く亊だってままあります。
それは例えば、「自分はなんて考えが浅いんだろうか」という、知らなければ良かったと思えるような場合とかね。

ただそうでもして自分の思っている亊を時々強引に確認すると、意識下にあったものが意識の舞台に浮上してきて、その後の人生で「無駄と思える回り道」とか「特に意味を感じないコミュニケーション」とか「楽しいと思えない努力」を回避出来る可能性があるんですよね。

でわたしは今回の議論で、改めて自分は日本を愛しているんだなあ、と思ったんです。
この時の「日本」という概念には、「日本に住んでいる自分の家族」っていうのも含まれるんですよね。

日本をイメージする時に、そこに住んでいる自分が大好きな人達っていうのが、内包されます。

大好きな人達が、嫌な思いをしない環境を手に入れたいし、継続させたい。

あ、ちょっと余談ですが、自分だけだったらそうは思わないかもしれません。

自分がちょっと嫌な思いを持つ亊になったとしても、ちょっとくらいだったら諍いを招くよりは楽だなと思えるかもしれませんし、自分が傷つくだけで万亊が上手くいくって思えたら、そういう選択をする可能性もあるかなって思います。

でもそれを、わたしが思う「日本」という概念に拡大して考えると、感じ方が違ってくるんです。

大切な人の生活が脅かされるのは、多分自分が傷けられる亊よりも痛みが強いんじゃないでしょうか。

長く長く痛みを感じる亊なんじゃないでしょうか。

でわたしは日本を、喧嘩腰じゃなく、言うべきことは言う、自立した国であって欲しいって思うんです。

譲り合いが出来るなら、したほうがいいと思うし、気遣いには気遣いでお返しもしたい。

でも殴りかかって来た相手がいたとしたら、ちゃんと大切な人々を守りたいという気持ちがあります。

わたしは少なからず、「表現」とか「芸術」というものに関わって、或いは考えて生きてきました。

芸術大学なる場所に通っていた亊もあります。

だからちょっとだけ、大多数の人より「表現」や「芸術」の亊について感情が揺さぶられ易いんです、過敏って亊かもしれません。

わたしは「表現の自由」という言葉について、今回になって初めて考えたワケでもなく、10代の中頃から幾度も思考してきました。

わたしが思う「自由」というのは、「ルールなし」という意味ではありません。

「責任を持つ」という亊じゃないかな、と思っています。

つまり「表現の自由」という言葉の意味する内容は、「表現した亊に責任を持つ」という亊かなって。

今議論の中心になっているのは、展覧会を開催した主催者や、展覧会を中止した中心人物だったりするようですけど、わたしは物凄く違和感を感じています。

わたしが最も気になっているのは、表現した人間の亊です。

あの作品を表現、芸術、作品、として発表した人の想いや思想、意図、こそが、まずは刮目したい対象なのです。

表現者は自分の表現に責任を持って、発信して欲しい。

もしかしたら発信しているのに、周りの雑音でかき消されているのかもしれませんね。

しかしそれでも、それこそ「表現した責任」を果たす意味で、議論の渦中に飛び込んで欲しいと思います。

アレほどピーキーで過激な表現を選び、作品として生み出したのですから、表現者としてその責任を全うして欲しいと思うんです。

わたしは、「日本を嫌う人」が言う亊だって、しっかり聞きますし議論もしたいとも思います。

でも「日本を嫌う人」の亊は好きになれません。

やっぱり、そう思うんです。

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