駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

人は結局、環境、教育、素質、のいずれに支配されているのか考えてみた


日々仕事をしている社畜の私です。

わたしの関心事の多くは、仕事のあれこれに起因するものが圧倒的に多く、その事実にゲンナリする人生です。

つまり、勤務時間以外に1秒とて「仕事に関する事」に時間を割きたくないと思っていながら、結果的にこうして仕事についてのブログを書いてしまったりしちゃう自分に、心底辟易しているのです。

さてそうして今日も、仕事の事を書こうと思います、溜め息と共に。

わたしは仕事で関わる様々な人々について、こんな事を考える機会が多いのです。

「この人のこのキャラクタ性は、環境によって作られたのか、或いはかつて受けた教育によって作られたのか、いやもしかしてそういった外的要因は無関係でそもそもの素質だったのか」

もちろんこれは、誰かの素晴らしい素質や性質についての話題ではなく、凡そ望まれざる性質についてです。

この人のこのどうしようもない性質は、どうやって今の状態にまで悪化したのか、という疑問です。

わたしの部下で実在する人物をサンプルに話を進めます。

仮に彼をAさんとしましょうか、イニシャルでもなんでもない単なる記号としてのAさん。

Aさんはチーム・リーダーという立場にありながら、チームを一切リーディングしません。

年齢もそれなりに40代に到達してしまっているので、周りの若い社員達はこのAさんを「リーディング出来る人」と認識しているワケですが、とても不幸な勘違いです。

Aさんは無自覚に、自分の不得手で稚拙なチーム・ビルディングを実行し、型落ちで穴だらけのチーム内ルールを設定して、「これでチームは動くぞ」と思い込みます。

実際は穴だらけのルールなので直ぐに破綻して、間もなくチーム・メンバーが困り始めるのですが、Aさんは基本的に他人に興味がないので全くその事実に気が付きません。

流石に放置が続くとチーム・メンバーも「おや?」と思い始めて、Aさんに「みんな困っているんですけど」とメンバーの誰かが上申し、普通ならそこで「発生している問題」を認識して遅ればせながら問題解決のアクションに着手するという流れになりそうなものですが、Aさんはそうなりません。

「困っている」という訴えを聞き、聞いたという事実だけで満足し、具体的な対処や対応行動を起こしてくれません。

または、まるで方向違いのトンチキ対応策を実行して、メンバーの苦笑いを買うだけならまだしも、「自分は対策を講じた」という自負だけはしっかり持つので、対策したにも関わらずまた問題を起こした(と勘違いしている)チーム・メンバーの事を糾弾し始めたりします。

お気づきの通り、Aさんの対策はどんな問題も1ミリも改善していませんから、問題が再度発生したのではなく何も変わらず同じ問題が残り続けていたに過ぎません。

無自覚、気が付かない、というのは本当に罪深いものでして、本人は「自分は気が付いていない」とはまったく思っていませんから、周りの人々が劣っているから問題がこんなにも頻発するのだ、という理解を信じ込んでしまいます。

物事を少しだけでも冷静に眺める事が出来れば、どこに齟齬が存在しているのか疑問に感じてその疑問を解消するべく、他人へのヒアリングや目の前にある事実の整理、交通整理を行いそうなものですが、そうはなりません。

こうした「良くない状況」が程度問題になる事は稀で、0か100という事が多いですね。

つまり「途中の部分までは疑問を持って解明or解決したけど、詰めが少し甘かったために一部だけ未解決が残った」という事は起こらず、「まったく勘違いした対策や見方をしているので、どんな小さな問題も1つもカケラも解決しない」となるわけです。

こういう書き方をすると「そんな絶望的な人はそうそういないだろう」と思われるかもしれませんが、わたしはそうは思いません。

というかむしろ、世界の8割くらいの人々はそんな感じなんじゃないかなと思っています。

悲観的過ぎるでしょうか。

これは単に「見方が違うだけ」という可能性は否定できませんが、問題の存在を正しく認識し、解決に向けた妥当性のある対策やアクションを提案し、その行動を他人と共有しながら遂行出来る人って、本当に本当にレアな存在じゃないでしょうか。

見た事ありますか、そういう人。

わたしは永い人生においてそういう人と出逢った経験は、たった一人だけです。

1人ですよ。

もしかしたら1人だけでも出逢えた事は、物凄く幸運な事なのかもしれません。

通常は1人とて出逢えない可能性もありますよね、というか本当にそうなんじゃないでしょうか。

仮にその方をBさんとしましょうか。

さて先にお伝えしたAさんとBさんについて考えます。

果たしてこの両者の背反する性質は、 どのように醸造されたのか、それがわたしには想像できないんです。

想像できないとうか、納得できないというか。

環境、教育、素質、という3要素に絞り込んで考えていますが、いかがでしょうね。

もしかしたら全部の要素があるパターンに一致した場合にのみ生み出されるのかもしれませんが、果たしてそうなのか。

出来ればそうではないという結論であって欲しいのは、「素質だけで全て決定される」というケースです。

素質なんだったら、教育や環境による打開は無意味だという事になってしまうからです。

素質を正しく見抜くしかないのだとしたら、ちょっと仕事に対して希望を持てないかもしれません。

そも、素質のない人を配置してしまった後、打開策は「解任する」、「ハズす」しかない、という事になるわけですが、その代替役の人間が素質を持っているとは限らないワケで、何度か不適任者を任命した後に、諦めをテコにして「対処しない」という解決策を採用する事になるのだとしたら、それまでに投下した時間的コストの無意味さに、わたしは正気を保てる自信がありません。

いや少々大袈裟過ぎました。

正気を保てる気はしますが、やる気を維持するのは無理だ、が正解ですね。

そうしたワケでわたしの希望(まさに希望)は、環境や教育によって、どんなリーダーシップのない人でも、どんなに浅はかな思慮しか持ちえない人でも、どんな幼稚な人でも、改善の可能性があるという事実だけ担保される事です。

「可能性がある」などという消極的な事実だけで満足するというのですから、私の希望は可愛いものでしょう。

みなさん、この話題どう思われますでしょうか。

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