駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

分かり合えない人を受け入れる事について考えてみた

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人と人とは分かり合えないと、長年生きてきてより確信しています。

と、いきなりネガティブな話題から書き始めてしまいました。でも本当にそう感じているんですよね。

ただ、その事そのものは取り立てて嘆き悲しむ程でもないな、という理解もしていまして、当たり前の事実を言語化して再認識しているに過ぎないでしょ。

他人と分かり合えるという幻想はとても甘美で、いついかなる時でも、つい信じてしまいたくなる、悪魔の囁きみたいなものだと思うんです。

この人とだけは分かり合える。

初めて人と分かり合えた。

そう感じた時の高揚感や多幸感は、わたしも少なからず経験がありますし。

ただそうした経験に必ずセットになるのが、やはり違ったのか、という残念な結末です。

今度こそは違うかも、という淡い期待を毎度持ち、その度にやはり違わなかったと思い直す。

そんな事を何度か繰り返すと、流石に自己防衛の為に学習するものでして、分かり合えないという前提を元に、誰かと関わるようになりました。

この生き方、色々の人にオススメしたいんです。

期待し過ぎない生き方は、消極的過ぎると感じるでしょうか。

確かにそうです。

でも弱い人間は、防衛手段を持っておかないと、傷ついた時の衝撃が辛くってね。

だからわたしは、分かり合えない事を悲観したりしません。

そういうモノだ、そういうルールなんだ、って思う事にしているからです。

分かり合えた、なんて事があったとしたら、ソチラの方が非日常で、事故なんだなって。

幸せな事故は、待つものでは無いって事です。

 

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