駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

ちょっと良くする、って然程難しくないと思う件

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日々生きていると、つい欲が出てくる事ってあるじゃない?

ちょっとカッコイイ言い方しちゃおうかなとか、ちょっと自分を本当よりも良く見せちゃおうかなとか、そういう感情。

わたしはそういう感情が自分の中に生まれた時、割と敏感に自覚するタチなんだと思います。

あ、自分は今欲かいているな、って。

そういう感情を、出来る事なら生涯捨て去って生きていきたいと強く思いながら、今まで一度もコントロール出来た試しがなありません。

結局はエゴが根底にあって、自分を自分のまま表現する事、自分のまま見られる事を、怖がっていたり嫌がっていたりするんだなって感じて、ゲンナリした気分に陥ります。

ただ、そういうネガティヴな感情を何度も経験すると、流石にちょっと考え方を変えようって思うものでしてね。

自分のエゴで「今の自分とは違う飾られた自分」を嘯くのではなくて、その感情が示してくれる「今の自分とは違う自分」にどうにかして近づく事は出来ないかな、って考えるんです。

そういう考え方に到達すると、ゲンナリする材料だった自分の感情が、目指すべき小ゴールの発見という形に変わった気がしてくるんですよね。

この感情のおかげで、やる事が見えてくるっていうか。

やる事っていうのはつまり、ちょっとずつでも自分が変わっていく為の、小さな努力だと思います。

「努力」なんて言葉は印象が強過ぎて拒否反応を示す人が多いかもしれないけれど、ちょっと誤解しているかもしれません。

「小さい」のサイズ感を。本当に本当に小さい努力の事を想像してみて?

あまりに小さい努力であれば、それは努力として感じる事が難しいくらい小さいサイズかもしれないじゃない?

無意味な程小さくしない事だけ注意して、意味を持てる程度まで小さくしてみると、意外に続ける事が出来たりするんですよ。

劇的な変化って人生の中でそうそう頻繁に起こらないと思うんです。

でも小さな努力が形になる事って、可能性としては劇的な変化よりもアリなんじゃないかなって。

だから、小さくて苦にならない程度の努力を生活の習慣に組み込む事が出来たら、知らない内に継続の実績を積んでいて、いつかその成果を手にする事があるかもしれないでしょう。

そんな都合の良い事はないだろう、って思いますか?

まあそうかもしれないです。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。

でも意識しないくらいにちいさな努力が習慣になったのだとしたら、その成果を仮に得られなかったとしても、失望する事もないんじゃないでしょうか。

だったらそんな小さな努力の習慣をダメモトでもどんどん試していくのって、なかなか悪くないんじゃないかなって思うようになったんです。

屁理屈かしらね。

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