駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

2年目の辞意

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会社で社員全員に対して、個人面談を実施しています。これまでは定期的にそうした「会社との対話」の機会は設置されていませんでした。わたしが役員に就任した事をきっかけに、わたしが強く希望して実施に至りました。

 今週はその個人面談をぎっしり詰め込んだ週です。一人につき40分、入れ替えと休憩で5分、というサイクルで1日に7人のペースです。流石にこのハイペースを継続すると疲れてしまうので、2日続けて1日休む、というスケジュールを組みました。

 疲れますが、必須だと思っている事なので充実感もあります。

 さてそんな面談マラソンの2日目、わたしが採用した2年目の新人女子との面談時に、辞意を告げられました。自分は今の仕事を続けたいが能力が至らず周りに迷惑をかけてばかりいる、このままでは気持ちがしんどくて良い方向に向かえそうにない、のだそうです。

 馬鹿を言うのも休み休みにしなさい。

 たかだか2年程度働いただけで、自分も周りも満足出来るような仕事ぶりを発揮出来るだなんて思っていたのなら、それは無自覚な過信であり奢りだとわたしは思います。

 辛いのは理解出来ます、わたしもどうという事のない凡愚ですから、同様に苦しみました。最初の10年はそのループから抜け出せずにいたと思います。

 でもその時に気持ちをぎりぎりなんとか繋いでくれたのは、わたしを採用してくれた人への恩返しがまだ出来ていないという、なんとも心許ない「気持ち」だけでした。未熟な自分の為に時間を割いて教育してくれた方々に対して、何も返せていない状態のまま職場を去る事が出来なかったわけです。

 この感覚は、ともすればブラック企業で搾取される若者という見え方にも通ずるのかもしれませんが、わたしのような「古い人間」はどうしてもドライになり切れない部分です。

 わたしは自分の時間というものを、とても大切にしています。だから他人がわたしの為に使ってくださった時間に対して、強烈な恩義を感じてしまいます。いつでもその恩返しができれば一番いいのでしょうが、なかなかそうもいかないというが現実です。

 ですから、なんとか自分の意思決定によってその恩返しの可能性を残せるのなら、その為にわたしの時間を費やすのは当たり前の事なんじゃないかな、と思うんですね。

 辞意を表明した2年目女子に対してわたしは、叱責する事も蔑む事も励ます事もしませんでした。引き止めもしていません。心の中で広がっているのは、ただただ空虚な残念感です。

 月に叢雲花に風。さよならだけが人生さ。

 わたしはまたひとつ、強くなれたのかもしれないですね。

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