駄目人間は明日も

鬱病を持っている駄目人間が日々吐瀉する徒然エッセイ

溜息

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「溜息」の話。溜息、つきますか。日々の生活の中で苦しい事、呆れる事、やるせなさを感じる事、様々なネガティヴ・ウェイヴがわたしを取り囲みます。もう逃げ場はないんじゃないか、どうやっても上手くいかないんじゃないか、そんな気持ちになる事も珍しくありません。

 人はそんな時に「溜息」をつくのでしょうか。

 わたしは「溜息」について、少しだけ敏感です。わたしが思わず漏らした「溜息」が、誰かを傷つけてしまうのではないかと、気になるからです。少なくとも、わたしは誰かの「溜息」を聴くと、心が波立ちおだやかでいられません。

 この「溜息」は何かの諦めだろうか。

 この「溜息」は苦痛への反抗だろうか。

 この「溜息」はわたしへの失望だろうか。

 気にシすぎ、と言われればその通りかもしれませんし、受け流して過ごせばいいだけの事かもしれません。事実、わたしは多くの現象、出来事に対してそんな風に振る舞い、自己防衛していますから。

 しかしながら「溜息」はわたしに、それなりの影響力、破壊力を示してしまうのですね。意図的に発せられた攻撃的な言葉や態度については冷静な対応が可能なわたしなのに、こと「溜息」についてはどうにも弱いのです。

 そうしたわたしの性質もあって、誰かの「溜息」についてわたしは見過ごせません。そればかりか、ともすればいつでも「溜息」を探しているんじゃないかと自分を疑う程です。

 わたしは言葉の力を強く信じています。信じているのと同時に、言葉ではどうにも表現出来ない事象や感情が存在している事もよくよく知っているつもりです。言葉が担当できる領域は、実はかなり狭い事をわかっています。

 「溜息」は言葉以外の言葉なのでしょう。

 わたしは自分が「溜息」をつきそうになって、つい大きく息を吸い込んだ時、いつもぎりぎりのところで気が付きます。今わたしは「溜息」をつこうとしている、と。

 そんな時は、一度息を止めて、ゆっくり落ち着いて自覚的に息を吐き出しています。何故でしょうか、わたしは自分が「溜息」をつく度に何かとても大切なモノを一緒に吐き出してしまうような気もします。

 「溜息」はある意味で、とても人間的な行為かのかもしれませんが、わたしは「溜息」のない世界で生きていきたいと熱望しています。

駄目人間は明日も

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